この記事の目次
「新規は毎月増えています」。売り手がそう説明し、買い手が「既存のお客さまは、どれだけ残っていますか」と聞き返す。SaaSの買収で、売上の将来を左右するのは、新規の数より先に既存顧客の残り方です。この記事は、解約率を3つの見方に分けて、買収後の売上をどう読むかを書きます。
この記事の結論
- 解約率は1つではありません。 顧客数の解約、売上の解約、NRR(既存顧客の売上維持率)は、答えている問いが違います。買収後の売上を読むなら売上ベースが中心です。
- 値上げとアップセルは、解約を隠します。 NRRだけを見ず、解約・ダウングレードで減った分と、増えた分を分けて確かめます。
- 解約率に一律の良し悪しの基準はありません。 相手の定義、顧客群別の推移、解約の理由を確かめ、複数の水準で売上シナリオを作ります。
この記事の対象:月額・年額課金のSaaSやWebサービスを買う側の方、および売却前に買い手から聞かれる数字を整えたい売り手の方。
SaaSのM&A全体の見方(主要KPI・価値の源泉・DD)は、SaaSのM&A DATAにまとめています。ハブの「DD」にある「解約率の推移と、顧客の集中」を、一段深く扱うのがこの記事です。継続売上そのものの数え方は、SaaS ARR 企業価値で扱っています。
解約率は3種類ある。顧客数・売上・NRRで、答えている問いが違う
結論: 買収後の売上を読むなら、売上の解約を中心に置き、顧客数の解約とNRRは補助として並べます。
まず、公開企業が実際にどう書いているかを見ます。定義は会社ごとに違います。
| 会社の開示 | 解約率の定義(原文の趣旨) | 読み取れること |
|---|---|---|
| Sansan(2026年5月期 第1四半期 決算説明資料) | 「Sansan」の既存契約のMRRに占める、解約に伴い減少したMRRの割合。直近12か月の平均月次解約率として開示 | 金額(MRR)ベース。分母は既存契約のMRR。月次を12か月平均にしている |
| freee(ファクトブック 2025年10月) | 月次解約率(当該月に有料課金ユーザーでなくなったユーザーに関連するARR÷前月末ARR)の過去12ヶ月平均 | 金額(ARR)ベース。「有料課金ユーザーでなくなった」ユーザーが対象で、料金プランを下げた分は、この定義の文面には出てこない |
どちらも金額ベースで、月次を12か月で平均している点は似ています。ただし分母も、対象も違います。両社の数字を並べて優劣を言うことはできません。自社と相手の数字を比べるときも、同じ定義に直してからにします。
そのうえで、解約率の主な見方を3つに分けます(この分け方は、本記事の整理です)。
| 見方 | 何を数えるか | 答える問い | 弱いところ |
|---|---|---|---|
| 顧客数の解約率 | 期間内に解約した顧客数 ÷ 期初の顧客数 | 顧客がどれだけ離れたか | 金額の大小が見えない |
| 売上の解約率 | 解約・ダウングレードで減った売上 ÷ 期初の売上 | 売上がどれだけ削られたか | 増えた分(アップセル)が見えない |
| NRR(既存顧客の売上維持率) | 前期にいた顧客の今期の売上 ÷ 前期の同じ期間の売上 | 既存顧客だけで売上がどれだけ残るか | 減った分と増えた分が混ざる |
NRRの定義も、会社が書いている範囲で確かめられます。freeeはNet Revenue Retention Rateを、該当期間中に、前期の同期間において顧客であったユーザーの該当期間における売上を、前期の同期間における売上で除して算出する、と注記しています。
顧客数と売上の違いは、仮の数字で見ると分かります。顧客100社、ARR 4,800万円のSaaSで、最大の顧客1社(ARR 1,440万円)が解約したとします。顧客数の解約率は1%、売上の解約率は30%です(仮の数字で、実在の事業ではありません)。顧客数だけを見ていると、この30%の減少に気づけません。
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| 「解約率は1%台です」という数字だけを受け取る | 顧客数か売上か、月次か年次か、分母は何かを先に聞く |
| 他社の決算資料の解約率と、自社の解約率を並べて評価する | 相手の定義を確かめ、同じ定義で数え直してから比べる |
| NRRが高いことだけを見て安心する | 解約・ダウングレードで減った分と、増えた分を分けて見る |
月次の解約率を年に直す。年払い契約は、更新が来るまで解約が見えない
結論: 月次の小さな率も、1年では大きな率になります。年払いの顧客が多い会社は、更新月を揃えて見ないと解約率が低く見えます。
月次の解約率が一定で続くと仮定すると、1年後に残る割合は、(1-月次解約率)を12回かけた値になります。次の表は、計算の形を示すための仮の数字です。
| 月次の解約率(仮) | 1年後に残る割合(計算) | 1年間の減少 |
|---|---|---|
| 0.5% | 約94.2% | 約5.8% |
| 1% | 約88.6% | 約11.4% |
| 3% | 約69.4% | 約30.6% |
「月1%」は小さく見えますが、1年では1割を超える減少になります。売り手が月次の率を示したときは、買い手側で年に直して見ます。
もう一つ、請求サイクルの違いがあります。月額課金の顧客は毎月解約の機会がありますが、年額契約の顧客は、解約が更新の時期にまとまって表に出やすくなります(中途解約や返金の扱いは契約によります。本記事の整理)。契約が始まって間もない顧客が多い会社は、更新を迎えた顧客が少ないので、解約率が低く見えます。この場合は、更新を迎えた顧客のうち、実際に更新された割合を、更新月ごとに別に出してもらいます。
会計の側でも、期間にわたり提供するサービスの売上は、進捗度に基づいて期間にわたり認識するものとされています(企業会計基準第29号 第38項、第41項。契約ごとに該当するかの判断は必要です)。このため、解約の通知を受けた時点と、決算書の売上が減る時点にはずれが生じ得ます。決算書の売上だけを見ていると、解約の影響が遅れて現れます。
解約の傾向は、顧客群ごとに分けて見る。全体の平均は、偏りを隠す
結論: 全体の平均だけでは、特定の群で起きている解約が見えません。群に分けて、どこで減っているかを確かめます。
| 分け方 | 見ること | 何が分かるか |
|---|---|---|
| 契約を始めた時期(コホート) | 開始から何か月後に解約が増えるか | 最初の更新で離れるのか、時間をかけて離れるのか |
| 料金プラン・契約金額の帯 | 小口と大口で解約の差があるか | 売上が少数の大口に頼っていないか |
| 請求サイクル(月額・年額) | 更新月ごとの更新率 | 年額契約の解約が更新時に偏っていないか |
| 顧客の業種・規模 | どの層で解約が多いか | 売り先を変えたときに残る層はどこか |
| 獲得の経路 | 経路別の継続率 | 値引きや特典で獲得した顧客が残っているか |
規模別・業種別の解約の水準を、一律の数字で示すことは、本記事ではしません。確認できる一次資料がないからです。見るのは、その会社自身の中で、群ごとにどれだけ差があるかです。
解約の理由も、群ごとに記録されているかを確かめます。価格、機能の不足、競合への乗り換え、顧客の事業の終了、担当者の交代では、買収後に直せるものと直せないものが違います。
値上げとアップセルは、解約を隠す。NRRは「減った分」と「増えた分」に分けて読む
結論: NRRが100%に近くても、解約が少ないとは限りません。増えた分の中身が値上げ1回なのか、利用の広がりなのかで、買収後の見通しが変わります。
公開企業の開示にも、この見方は表れています。Sansanは決算説明資料で、解約で減少した収入に対して、既存契約における収入増加が上回った状態を「ネガティブチャーン」と説明しています。NRRも同じく、減った分と増えた分を合わせた結果として読みます(NRRとのつなげ方は本記事の整理)。
仮の数字で、分けて読む形を示します。期初のARR 4,800万円の既存顧客について、1年間の動きを次のように置きます(仮の数字で、実在の事業ではありません)。
| 項目(仮) | 金額 | 期初ARRに対する割合 |
|---|---|---|
| 期初のARR | 4,800万円 | 100% |
| 解約で減った分 | -576万円 | -12% |
| ダウングレードで減った分 | -144万円 | -3% |
| 値上げで増えた分 | +288万円 | +6% |
| アップセル(追加の利用)で増えた分 | +144万円 | +3% |
| 期末のARR(既存顧客のみ) | 4,512万円 | 94%(NRR) |
減った分だけを見ると85%しか残っていません(解約とダウングレードの合計が15%)。NRRは94%ですが、増えた分のうち値上げ6%が一度きりなら、次の年に同じ増加は期待できません。値上げの分を除くと88%です。
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| NRR 94%を「ほぼ維持できている」と受け取る | 減った分(15%)と増えた分(9%)に分け、増えた分の内訳(値上げ・アップセル)を確認する |
| 値上げ後の売上で、今後の解約率を予測する | 値上げの前後で、解約の月次推移がどう変わったかを見る |
| 割引終了後の顧客を、継続顧客として数える | 割引が終わった顧客の継続率を、別に出してもらう |
値上げ後に解約が増えるかどうかは、その会社の顧客と料金の関係で決まります。一般的な傾向として語らず、値上げ前後の実績を確かめます。
解約を織り込んだ売上シナリオを作る。1つの数字で予測せず、3つの水準で見る
結論: 将来の売上は、解約率を1つに決めて計算せず、複数の水準を並べて「どこまで下がっても耐えられる価格か」を考えます。
次の表は、新規の契約を1件も見込まない前提で、既存顧客のARR 4,800万円が、NRRの水準ごとにどう推移するかを示した仮の計算です。実際の見通しではありません。
| NRR(仮) | 1年後 | 2年後 | 3年後 |
|---|---|---|---|
| 100% | 4,800万円 | 4,800万円 | 4,800万円 |
| 94% | 4,512万円 | 約4,241万円 | 約3,987万円 |
| 88% | 4,224万円 | 約3,717万円 | 約3,271万円 |
NRRが88%のまま3年続くと、新規がなければ、既存のARRは約3分の2になります。この差を、新規の獲得で埋められるか、それに必要な費用はいくらかを、次に見ます。新規獲得の費用が大きいなら、解約による減少を新規の売上で補っても、利益は残らないかもしれません。
シナリオを作るときの手順です。
- 直近の顧客群別の実績から、解約・ダウングレード・増加を分けて出す
- 実績の水準を基準に、悪い側(解約が増える)と良い側の2つを加えて3水準にする
- 顧客集中を重ねる。最大顧客1社が解約したときのARRも、別に計算する
- 3水準それぞれで、新規獲得の費用を含めた利益の見通しを出し、価格を考える材料にする
価格への反映は、当事者の合意で決まります。計算の前提と結果を、売り手と買い手で同じ表で確認します。
DDで確かめる契約・請求・利用ログ。解約率の数字は、元の記録から再計算する
結論: 売り手が示した解約率は、契約・請求・利用の記録から買い手側で再計算できて初めて、価格を考える数字になります。
| 資料 | 確かめること | 食い違うときに疑うこと |
|---|---|---|
| 契約の一覧 | 開始日・更新日・解約日・プラン・契約金額・割引条件 | 解約日の記録漏れ、更新と新規の混同 |
| 契約書・利用規約 | 解約の申し出の期限・方法、自動更新、最低利用期間、譲渡や承継の可否 | 契約書の条件と実際の請求・運用が違う |
| 請求・入金の記録 | 請求が止まった日、返金、クレジット、未収 | 請求は続いているが入金がない顧客を継続に数えていないか |
| 利用ログ | ログイン・利用量・利用席数の推移 | 契約は残っているが、使われていない顧客(解約の予兆)がいないか |
| 解約の申請・理由の記録 | 理由の分類と時期 | 理由が不明の解約が多くないか |
利用ログは、契約が残っていても使われなくなった顧客を見つける材料です。ただし、ログには個人に関わる情報が含まれることがあります。開示は、顧客名を管理番号に置き換えた集計の形にするなど、範囲と方法を売り手と買い手で決めます。個人情報の扱いは、弁護士など専門家に確認してください。
契約書の解約条件も確かめます。解約の申し出を受けた日から契約が終わるまでの期間、最低利用期間、返金の条件は、契約ごとに違うことがあります。売上の減少がいつ決算書に現れるかにも関わります。
自社の場合を確認する 解約を織り込む前に、自社の事業の価値の見え方を確かめたいとき → 事業価値を確認する
まとめ
- 解約率は、顧客数・売上・NRRで答えている問いが違います。買収後の売上を読むなら、売上ベースを中心に置きます。
- 月次の率は年に直し、年払いの顧客は更新月ごとに見ます。顧客群ごとに分けると、平均が隠す偏りが見えます。
- 値上げとアップセルは解約を隠します。減った分と増えた分を分け、複数の水準で売上シナリオを作り、元の記録から再計算します。
よくある質問(FAQ)
Q1. SaaSの解約率は、何%なら良いと言えますか? A. 一律の基準は、本記事では示しません。公開企業の開示を見ても、解約率の分母や対象が会社ごとに違います(Sansan は既存契約の MRR に占める解約で減った MRR の割合、freee は有料課金ユーザーでなくなったユーザーに関連する ARR を前月末 ARR で割った率)。定義が違う数字を並べて「良い・悪い」とは言えません。まず相手の定義を確かめ、その会社の顧客群別・期間別の推移で判断します。
Q2. 顧客数の解約率と、売上の解約率は、なぜ別に見るのですか? A. 解約した顧客の契約金額が同じとは限らないからです。顧客数では小さく見えても、金額の大きい顧客が1社抜ければ売上は大きく減ります。逆に、小口の顧客が多く抜けても売上への影響は小さいことがあります。買収後の売上を読む目的なら、売上ベースを中心に、顧客数ベースを補助として見ます。
Q3. NRRが100%を超えていれば、解約は気にしなくてよいですか? A. 気にしなくてよいとは言えません。NRR は、解約で減った分と、値上げ・アップセルなどで増えた分を合わせた結果です。Sansan の決算説明資料でも、解約で減少した収入を既存契約の収入増加が上回る状態を「ネガティブチャーン」と説明しています。増えた分が一部の顧客や一度きりの値上げに偏っていれば、解約の増加が隠れます。解約による減少と増加を分けて見ます。
Q4. 解約率が低ければ、買収後も売上は減らないと考えてよいですか? A. そうとは限りません。過去の解約率は、買収後も同じ水準が続く保証ではありません。年払い契約は更新の時期にまとめて解約が出ることがあり、更新が来ていない顧客が多ければ解約率は低く見えます。さらに、代表者や開発者が離れること、サービスの料金や機能を変えることでも、解約の傾向は変わり得ます。本記事では、解約率を複数の水準に置いた売上シナリオで見る方法を示しています。
Q5. 買収の検討中に、買い手は顧客の利用ログや請求データを見せてもらえますか? A. 見せる範囲と方法は、秘密保持契約と、個人情報の取り扱いを踏まえて売り手と買い手で決めます。顧客名や個人を特定できる情報を出さず、管理番号と集計値で解約の推移を確認する方法が考えられます(本記事の整理)。個人情報の取り扱いは個別の判断が要るため、弁護士など専門家に確認してください。
Q6. 解約が増えていた場合、買収をやめるしかありませんか? A. やめるしかないとは限りません。解約の理由(価格・機能・競合・倒産・担当者の交代など)と、直せるものかどうかで判断が分かれます。解約が一部の顧客群や特定の時期に集中しているなら、その群を除いた売上シナリオで価格を考える、解約の理由を調べる期間を設ける、といった選択肢があります。価格や契約条件への反映は、当事者の合意と専門家の助言のもとで検討します。
出典
- Sansan株式会社「2026年5月期 第1四半期 決算説明資料」(2025年10月10日) https://data.swcms.net/file/corp-sansan-ir/dam/jcr:10e0bc4b-d6bf-47a1-b1a0-8ced1646e521/140120251010571626.pdf
- フリー株式会社「ファクトブック」(2025年10月) https://corp.freee.co.jp/ir/factbook_ja.pdf
- 企業会計基準委員会(ASBJ)「企業会計基準第29号 収益認識に関する会計基準」 https://www.asb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/4/ikan_20240701_36.pdf