この記事の目次
「ARRは4,800万円です」。売り手がそう言い、買い手が「その数字に、初期費用や受託の売上は入っていますか」と聞き返す。SaaSの売却で、価格の議論が始まる前によくある場面です。この記事は、ARR・MRRをどこまで数え、何を除き、どう裏づけるかを書きます。
この記事の結論
- ARR・MRRは、会計基準で定義された数字ではありません。 何を入れて何を除くかを、売り手と買い手で先にそろえる必要があります。
- 数えるのは繰り返し請求される契約料金だけです。初期費用・受託・従量課金は別の欄に分けると、数字が比べやすくなります。
- ARRは売上・粗利・入金と突き合わせて初めて、価格を考える材料になります。
この記事の対象:月額・年額課金のSaaSやWebサービスのオーナーで、売却を考え始めた段階の方、または買収を検討している方。
SaaSのM&A全体の見方(主要KPI・価値の源泉・DD)は、SaaSのM&A DATAにまとめています。ハブの「主要KPI」と「売却相場」で触れた、継続売上の数え方を一段深く扱うのがこの記事です。
ARR・MRRは会計の数字ではなく、取り決めの数字。まず定義を一本化する
結論: 会計基準にARRという項目はありません。同じ「ARR 4,800万円」でも、入れているものが違えば別の数字です。
企業会計基準委員会(ASBJ)の企業会計基準第29号「収益認識に関する会計基準」は、顧客との契約から生じる収益について、契約の識別、履行義務の識別、取引価格の算定、取引価格の配分、収益の認識の5つのステップで処理すると定めています。この基準の本文に、ARR・MRRという語は出てきません。ARRは、事業の継続的な売上を把握するために事業側が使う指標です。
だから、決算書の売上とARRは一致しないのが普通です。次のように、どちらが何を表すかを分けて考えます。
| 決算書の売上 | ARR | |
|---|---|---|
| 何を表すか | その期に収益として認識した額 | 今この時点の契約が、1年続いた場合の継続売上 |
| 初期費用・受託 | 含まれる | 含めない |
| 年額前払い | 提供した期間に応じて認識することが多い(契約ごとに判断) | 年額をそのままARRに数える |
| 定義の出どころ | 会計基準 | 売り手と買い手の合意 |
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| 他社の記事や決算資料の「ARR」と、自社のARRを同じ物差しとして比べる | 自社のARRの入れるもの・除くものを書き出し、相手の定義と照らす |
| 売り手が自分で定義した数字を、そのまま価格交渉に持ち込む | 定義を文章にして、契約一覧から再計算できる状態にしてから見せる |
| MRRに12を掛けた数字と、実際の年額契約の数字が混ざる | 月額契約はMRR×12、年額契約は年額、と数え方を契約タイプ別に決める |
ARRに入れるのは繰り返し請求される契約料金だけ。初期費用・受託・従量課金は別の欄に分ける
結論: 迷いやすいのは4種類の売上です。入れる・分ける・条件つきの3つに仕分けると、数字が説明しやすくなります。
| 売上の種類 | ARRの扱い | 理由と確認点 |
|---|---|---|
| 月額・年額の利用料(サブスク) | 入れる | 繰り返し請求される契約の中心 |
| 初期費用・導入設定費 | 除く | 一度きりの請求。解約されると以後は発生しない |
| 受託開発・カスタマイズ | 除く | 顧客ごとの個別案件。次期も同じ額が出る保証がない |
| 従量課金(利用量に応じた請求) | 別枠で示す | 実績が変動する。最低保証額がある場合は、その分だけを入れる整理もある |
| 保守・サポートの年間契約 | 契約内容を見て決める | 毎年自動更新で請求しているなら継続売上に近い。個別の依頼ごとに請求するなら除く |
従量課金のように金額が動く売上は、会計の側でも「変動対価」として、見積りの方法が決められています(企業会計基準第29号 第50〜51項)。ARRでも同じで、直近の実績の幅(最大・最小)を併記すると、買い手が見やすくなります。
SaaSに受託開発が混ざっている会社は、受託の部分を除いたうえで、システム開発側の見方で別に見ます。その見方はシステム開発会社の売却相場で扱っています。
年払い・割引・無料期間・更新で、同じ契約でもARRは変わる
結論: 契約が「今いくら請求されているか」を基準にし、将来の値引き終了や更新見込みは別の欄に書くと、数字がぶれません。
| 状況 | ARRの数え方の一例 | 気をつける点 |
|---|---|---|
| 年額を前払いで受け取る | 年額をARRに入れる。MRRは12で割る | 入金は期の初めに集中するが、売上は提供期間にわたって認識される |
| 初年度だけ割引している | 現在の請求額で数える。定価に戻る分は見込みとして別欄 | 定価に戻ったときに解約される可能性を、割引終了後の実績で確かめる |
| 無料トライアル中の顧客 | ARRに入れない | 有料契約に変わった時点で入れる |
| 契約更新が近い | 更新前でも、現時点で有効な契約は入れる | 更新日と、更新されなかった実績の割合を併記する |
| 解約通知を受け取っている | 契約終了日まではARRに残しつつ、「解約予定」として別に示す | 解約予定を隠したARRは、買い手に見つかったとき信用を失う |
会計の側では、サービスを提供する前に顧客から対価を受け取った場合、その対価は契約負債として貸借対照表に計上されます(企業会計基準第29号 第78項、契約負債の定義は第11項)。年額前払いの入金があっても、それがすべてその期の売上になるわけではありません。ARRとキャッシュの動きがずれるのは、この仕組みによります。
なお、同じ基準は、一定の期間にわたり充足される履行義務について、進捗度に基づいて収益を期間にわたって認識すると定めています(第38項、第41項)。利用期間にわたってサービスを提供する契約が、この整理に当たるかどうかは契約ごとに判断が必要です。税理士や公認会計士に確認してください。
ARRは売上・粗利・入金と突き合わせて初めて価格の材料になる
結論: ARRが大きくても、粗利が薄い、入金が遅い、売上と合わないなら、買い手は数字を割り引いて見ます。3つの照合を先に済ませておきます。
| 照合 | 何を確かめるか | 食い違うときに疑うこと |
|---|---|---|
| ARR ↔ 決算書の売上 | ARRと除外した売上(初期費用・受託・従量)の合計が、売上に近づくか | 除外の漏れ、契約開始日のずれ、期中の解約・新規 |
| ARR ↔ 粗利 | 継続売上に対する直接原価(サーバー、決済手数料、サポート人件費)の割合 | 受託の人件費がSaaSの原価に混ざっていないか |
| ARR ↔ 入金 | 請求したものが、期日どおり入金されているか | 未収の長期化、請求書の発行漏れ、返金 |
仮の数字で、集計表の形を示します。実際の事業や相場を示すものではありません。
| 項目 | 仮の金額(年換算) | ARRの扱い |
|---|---|---|
| 月額契約(月額の合計300万円×12) | 3,600万円 | 入れる |
| 年額契約(年額の合計) | 1,200万円 | 入れる |
| ARR | 4,800万円 | |
| 初期費用・導入設定費 | 200万円 | 除く |
| 受託開発・カスタマイズ | 400万円 | 除く |
| 従量課金(直近12か月の実績) | 300万円 | 別枠(変動) |
| 決算書の売上(仮) | 5,700万円 | ARRは売上の約84% |
| 継続売上に対する直接原価(仮) | 1,200万円 | 継続粗利は3,600万円(75%) |
この表の売上5,700万円とARR 4,800万円の差(900万円)が、初期費用・受託・従量の合計と一致します。この「差の説明がつく状態」が、買い手が最初に確かめる点です。
中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)は、評価倍率を使う類似会社比較法(マルチプル法)について、類似する上場会社の企業価値と財務指標から評価倍率を算出する方法と説明しています。中小M&Aでは、指標にEBITDA(簡易的に営業利益+減価償却費)を用いる方法が多いとされています(参考資料2)。ARRを指標にした倍率の相場値は、同ガイドラインには載っていません。ARRの数字が整っていることは、価格を決める材料の一つであって、ARRに倍率を掛ければ価格が出るわけではありません。
倍率を読む前に、成長・解約・顧客集中でARRの質を見る
結論: 同じARR 4,800万円でも、増えているか、減っているか、1社に偏っているかで、買い手が見る価格の根拠は変わります。
| 見る点 | 買い手が安心しやすい状態 | 価格の根拠が弱くなる状態 |
|---|---|---|
| ARRの推移 | 月次で、新規・拡大・解約による増減が分けて見える | 合計値しかなく、増えた理由が説明できない |
| 解約 | 解約のタイミングと理由を記録している | 解約が起きた月に集中し、理由が不明 |
| 顧客集中 | 上位の顧客が全体に占める割合が小さい | 1〜2社でARRの大きな割合を占める |
| 契約の条件 | 更新条件・解約条件が契約書で確認できる | 口頭の約束が多く、契約書と請求が一致しない |
| 値引き | 値引きの条件と終了日が一覧にある | 割引が個別に積み重なり、定価との差が把握できていない |
仮の数字で、顧客集中の見方を示します。ARR 4,800万円のうち、最大の顧客が1,440万円(30%)を占めるとします。その顧客が解約すると、ARRは3,360万円になります。買い手が見るのは、その顧客の契約期間、解約条件、他のサービスで置き換えられるかどうかです(仮の数字で、この会社の実態ではありません)。
解約率(チャーン)やNRRの見方そのものは、ハブの「主要KPI」「DD」にまとめています。どの数字を何で測るかを決めておくことが、ARRの信用につながります。
ARR集計表は、月次で作れる形にしておく
結論: 売却のときに慌てて作る表は、あとから説明がつきません。月次で作り続けている表のほうが、買い手の信用を得られます。
| 列の例 | 内容 | 使う場面 |
|---|---|---|
| 顧客ID(個人名ではなく管理番号) | 契約を特定する番号 | 顧客集中の確認 |
| プラン・請求サイクル | 月額・年額・従量の区分 | ARRへの算入ルール |
| 契約開始日・更新日 | 契約の期間 | 更新・解約の見込み |
| 請求額・割引額・割引終了日 | 現在の請求と、定価に戻る日 | 割引の影響の確認 |
| ARR・MRR | 算入ルールに従った年額・月額 | ARR合計との照合 |
| 状態 | 有効・解約予定・解約済 | 解約の記録 |
個人名やメールアドレスなどの個人情報は、この表には入れず、管理番号で足ります。買い手に見せる段階と範囲は、秘密保持契約の取り決めに応じて決めます。
自社の場合を確認する ARRを数え直す前に、自社の事業の価値の見え方を確かめたいとき → 事業価値を確認する
まとめ
- ARR・MRRは会計基準にない指標です。入れるものと除くものを、売り手と買い手で先にそろえます。
- 数えるのは繰り返し請求される契約料金だけにして、初期費用・受託・従量課金は別の欄に分けます。割引や解約予定は、隠さず別欄に書きます。
- ARRは売上・粗利・入金と突き合わせて初めて材料になります。ガイドラインは、算定手法の結果をもとに交渉し、最終的には当事者の合意で譲渡額が決まるとしています。
よくある質問(FAQ)
Q1. ARRとMRRは、会計基準で決まった定義がありますか? A. 企業会計基準第29号「収益認識に関する会計基準」の本文には、ARR・MRRという語は出てきません。両者は会計上の売上とは別に、事業の側で使われる指標です。そのため、売り手と買い手が同じ定義で数えているかを、取引の初めに確認する必要があります。
Q2. 初期費用や導入支援の売上は、ARRに入れてよいですか? A. 本記事では入れない扱いにしています(会計基準やガイドラインにARRの定めはありません)。ARRは毎期繰り返し請求される契約料金を数える指標なので、一度きりの初期費用や、顧客ごとに作る受託開発・カスタマイズの売上は別の欄に分けます。ただし、毎年更新される保守契約のように継続して請求されているものは、契約の内容を見て入れるかを決めます。
Q3. 年額を前払いでもらっている場合、ARRはどう数えますか? A. 本記事では、年額の契約金額をそのままARRに数え、MRRに直すときは12で割る扱いにしています(ARRの数え方は会計基準の定めではありません)。会計の側では、サービスを提供する前に受け取った対価は契約負債として貸借対照表に計上されます(企業会計基準第29号 第78項)。入金額と、その期に認識する売上は一致しません。
Q4. ARRに掛ける倍率の相場はいくらですか? A. 中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)が示す類似会社比較法は、類似する上場会社の企業価値と財務指標から評価倍率を出す方法で、中小M&AではEBITDAを使う方法が多く用いられるとされています。ARRに対する倍率の相場値は、同ガイドラインには載っていません。本記事でも数値は示しません。
Q5. ARRが大きければ、企業価値も大きくなりますか? A. ARRだけでは決まりません。ARRが利益やキャッシュにつながっているか(粗利・営業費用)、解約や値引きで減っていないか、特定の顧客に偏っていないかを合わせて見られます。ガイドラインも、最終的な譲渡額は当事者が合意した金額になるとしています。
Q6. 売却前に、ARRまわりで何を準備すればよいですか? A. 契約ごとの一覧(顧客・プラン・請求サイクル・開始日・更新日・金額・割引)を作り、ARRの定義を文章にしておくことです。そのうえで、ARRを会計上の売上、粗利、入金と突き合わせた表を用意します。個別の税務や会計の判断が必要な場面では、公認会計士・税理士などの専門家に確認してください。
出典
- 企業会計基準委員会(ASBJ)「企業会計基準第29号 収益認識に関する会計基準」 https://www.asb-j.jp/jp/accounting_standards_system/details.html?topics_id=13
- 同 基準本文(PDF) https://www.asb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/4/ikan_20240701_36.pdf
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」 https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/m_and_a_guideline.pdf
- 同 参考資料2「中小M&Aの譲渡額の算定方法」 https://www.meti.go.jp/files/900016261.pdf