この記事の目次
売り手資料に人件費率やエンジニアの平均年収が載っていても、それは今期に払った人件費の記録です。退職金、決算日後に払う賞与、社会保険、固定残業代は、将来の支払いが決算書の外側に残ることがあります。この記事は、エンジニアを多く雇う会社の買収で、これらをどの書類から拾い、いくらの規模になりうるかを見て、価格や契約にどう置くかを整理します。
この記事の結論
- 給与総額で見えるのは今期の人件費だけです。 退職金・賞与・社会保険は、規程・支給の実績・届出の3種類の書類から別に拾います。
- 固定残業代・裁量労働制・管理監督者は、導入しているかではなく、要件を満たして運用しているかで将来負担が変わります。 エンジニアの会社では、対象業務と、手当が何時間分かに注目します。
- 見つけた負担は、実質純資産・運転資金・価格・契約の4か所に置き分けます。 株式譲渡は債務が会社に残り、事業譲渡は労働契約の承継に従業員ごとの承諾が要ります。
この記事の対象:エンジニアを多く雇うシステム開発会社の買収を検討している方。売り手として、買い手に人件費のどこを問われるかを知りたい方にも使えます。
システム開発会社全体の見方はシステム開発会社のM&A DATAにまとめています。この記事が扱うのは、退職給付・賞与・社会保険・固定残業代など、現場の労働時間の記録とは別に残る人件費です。現場への移動や早出といった労働時間そのものの未払賃金は、別業種の例ですが建設会社 買収 未払残業代で扱っています。契約の型と派遣の許可、技術者別の粗利はSES会社 買収 注意点、株式譲渡と事業譲渡の契約の違いはシステム開発会社 M&A 契約 引継ぎにあります。社長自身の役員退職慰労金は、この記事の対象外です。
給与総額に出るのは今期に払った人件費だけ。退職金・賞与・社保・固定残業代は、規程と届出から別に拾う
結論: 売り手資料の人件費は、今期の支払額です。将来の負担になりうる4つ(と裁量労働制・管理監督者の運用)は、規程、支給の実績、届出の3種類の書類から別に拾います。
中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(以下、ガイドライン)は、中小M&Aでは、未計上の退職給付債務や未払残業代等の簿外債務が問題となるケースが多いとしています。また、株式譲渡は譲り渡し側の法人格に変動がないため、簿外債務・偶発債務のリスクが比較的高くなりやすく、より詳細なデュー・ディリジェンス(DD)が実施される傾向にあるとしています。
本記事は、エンジニアを多く雇う会社で確かめる論点を、次の5項目に整理します(5項目の分け方は本記事の整理です)。
| 論点 | 負担が生まれる理由 | 最初に出してもらう書類 |
|---|---|---|
| ① 退職金 | 就業規則等の定めに基づく退職一時金は、従業員との関係で法的債務を負うと、中小企業の会計に関する指針(以下、中小会計指針)が整理している | 退職金規程、退職金共済の加入証明、過去の退職者への支払記録 |
| ② 賞与 | 賞与は労働基準法上の賃金。翌期に払う賞与の当期負担分は、賞与引当金の対象になる(中小企業の会計に関する基本要領。以下、中小会計要領) | 賞与規程(就業規則)、直近3期の支給実績、直近の賞与の支給額一覧 |
| ③ 社会保険 | 法人の事業所で常時従業員を使用するものは適用事業所になり、事業主が保険料の納付義務を負う | 従業員名簿、被保険者名簿、資格取得届の控え、賞与支払届の控え |
| ④ 固定残業代 | 手当で払った割増賃金が、法の計算額に足りているか。足りなければ差額が残る | 賃金規程、労働条件通知書、給与明細、勤怠 |
| ⑤ 裁量労働制・管理監督者 | 対象や実態が合わなければ、みなしや適用除外の効果が生じない | 労使協定と届出の控え、対象者の一覧、職務内容が分かる資料 |
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| 人件費の総額が前期並みなので、将来の負担も同じと見る | 総額ではなく、規程ごとに「いつ・誰に・いくら出ていくか」を並べる |
| 決算書に引当金が載っているので足りていると見る | 引当金の計算根拠(規程・人数・基礎額)を出してもらい、自分で計算し直した額と比べる |
| 「うちは退職金制度がない」という説明で終える | 規程の有無に加え、過去の退職者へ実際に払った記録を見る(理由は次の章) |
退職金は、規程の有無と制度の型で債務の姿が変わる。期末の自己都合要支給額から入る
結論: 退職金規程がある退職一時金は、会社に債務として残ります。外部の共済に掛金を払う型は、掛金の納付状況を確かめます。規程がない場合も、支給実績があれば債務が生じうるため、実績を確認します。
労働基準法89条は、常時10人以上の労働者を使用する使用者に就業規則の作成を求め、退職手当の定めをする場合は、適用される労働者の範囲、決定・計算・支払の方法、支払の時期を記載事項とします。退職金規程の有無は、この記載で確かめます(10人未満の会社は、この条の作成義務の対象ではありません)。
| 制度の型 | 決算書での扱い(中小会計要領・中小会計指針) | 買い手が見ること |
|---|---|---|
| 自社の退職一時金 | 期末の自己都合要支給額などを基に、退職給付引当金を計上する | 規程と人数・基礎額から要支給額を自分で計算し、引当金と比べる |
| 中小企業退職金共済・特定退職金共済・確定拠出年金 | 拠出以後に追加的な負担が生じない制度は、毎期の掛金を費用処理し、引当金は計上しない | 対象の従業員全員の掛金が納付されているか。別に上乗せの一時金規程がないか |
| 上記の併用 | 期末自己都合要支給額から、外部制度が給付する額を除いた金額による(指針) | 併用の定めと、外部制度から出る金額 |
規程も合意もない場合について、中小会計指針は、退職給付債務を計上することはできないとしています。ただし、退職金の支給実績があり、将来も支給する見込みが高く、金額を合理的に見積もれるときは、重要性がない場合を除き、退職給付引当金を計上する必要があるとしています。「制度はない」と言う会社でも、過去の退職者に慰労的に払った記録があれば、買い手は将来も払う見込みの根拠として読みます。
仮の数字で概算します。 仮に、エンジニア20人の会社で、退職金規程が「退職金計算の基礎額に、勤続年数に応じた支給月数を掛ける」と定め、全員が自己都合で退職したときの額(期末自己都合要支給額)を次のように計算するとします。基礎額・支給月数・人数は、すべて本記事が置いた仮のものです。
| 勤続年数 | 人数 | 基礎額(月) | 支給月数 | 1人あたり | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|
| 10年以上 | 4人 | 40万円 | 10.0か月 | 400万円 | 1,600万円 |
| 5年以上10年未満 | 6人 | 32万円 | 4.0か月 | 128万円 | 768万円 |
| 3年以上5年未満 | 4人 | 28万円 | 1.5か月 | 42万円 | 168万円 |
| 3年未満 | 6人 | ― | 規程上は支給なし | 0円 | 0円 |
| 合計 | 20人 | 2,536万円 |
この仮の例で、決算書の退職給付引当金が1,200万円なら、規程どおりに計算した額との差は1,336万円です。この差が、買い手から見た未計上の部分です(本記事の整理)。全員が同時に辞めるわけではありませんが、買い手が確かめたいのは、規程どおりに払うと決まっている額と、会社が積んでいる額の差です。
中小会計指針には、退職金規程があるのに引当金を計上していなかった会社が新たに計上する場合に、影響額(適用時差異)を、10年以内の一定の年数か従業員の平均残存勤務年数のいずれか短い年数にわたり定額法で費用処理できるとする特則があります。この特則を使っている会社では、将来の利益から未償却の差額が毎期差し引かれます。買い手が見る営業利益が、この費用を織り込んだ後の数字か、織り込む前の数字かを確かめます。未償却の適用時差異の金額は、注記に載ります。
買収後に、規程を下げて債務を減らす前提で価格を組むことは避けます。労働契約法は、使用者が労働者と合意することなく就業規則を変更して、労働者の不利益に労働条件を変更することはできないとしています(9条)。例外として、変更後の規程を周知し、変更が不利益の程度や変更の必要性などに照らして合理的であれば、変更後の規程による(10条)とされています。合理的かどうかは個別の判断になるため、弁護士や社会保険労務士に確認してください。
退職後の請求の時効は、労働基準法附則143条3項により、当分の間、退職手当は5年、退職手当を除く賃金は3年です(確認日の2026年10月18日時点の条文)。
事業譲渡で従業員を移す場合は、株式譲渡と扱いが変わります。厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(以下、事業譲渡等指針)は、事業譲渡は特定承継であり、労働契約を譲受側に承継させるには、承継予定労働者から民法625条1項に基づく個別の承諾を得る必要があるとしています。労働条件を変更して承継させる場合は、その変更についての同意も要ります。勤続年数を引き継ぐか、譲渡時点で退職金を精算するかは契約で決める事項で、決め方は本記事の整理です。
賞与は、決算日後に払う分の当期負担を拾う。社保の届出方法も支給回数で変わる
結論: 賞与は労働基準法上の賃金です。決算日後に払う賞与の当期負担分は、引当金が計上されていないと決算書に出ません。支給回数は、社会保険の届出方法も左右します。
労働基準法11条は、賃金を、賃金、給料、手当、賞与その他名称を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものと定めます。賞与の時効は、退職手当を除く賃金として、当面3年です(附則143条3項)。就業規則には、臨時の賃金等(賞与を含む)の定めをする場合は、その事項を記載します(89条4号)。
中小会計要領は、賞与引当金を、翌期に従業員に支給する賞与の見積額のうち、当期の負担に属する部分の金額を計上するものとしています。具体的には、決算日後に払う賞与の金額を見積もり、当期に属する分を月割りで計算する方法が考えられるとしています。
仮の数字で概算します。 仮に、3月決算の会社で、従業員20人、賞与の算定基礎となる月例給与の平均が35万円、夏季賞与が月例給与の1.5か月分、支給日が6月10日、支給対象期間が12月1日から5月31日までとします。
| 項目 | 計算 | 金額 |
|---|---|---|
| 夏季賞与の見込額 | 20人 × 35万円 × 1.5か月 | 1,050万円 |
| 決算日(3月末)までの対象期間 | 12月〜3月の4か月 ÷ 対象期間6か月 | 3分の2 |
| 当期の負担に属する額 | 1,050万円 × 4/6 | 700万円 |
引当金が計上されていなければ、決算書には出ない700万円分の負担が、支給日に現金で出ていきます。賞与にはこのほか、事業主負担の社会保険料がかかります(次の章)。
決算賞与を使っている会社では、税務上の扱いが別に定められています。国税庁タックスアンサーNo.5350は、使用人賞与の損金算入時期について、支給額を各人別に、同時期に支給を受けるすべての使用人に通知していること、その金額を通知した日の属する事業年度終了の日の翌日から1か月以内に支払っていること、通知した日の属する事業年度で損金経理をしていること、の3つを満たす賞与は、通知した日の属する事業年度に損金算入するとしています。決算書の費用の時期と税務上の時期が一致しているか、期末後の支払いが1か月以内に収まっているかは、売り手の税理士に確認します。
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| 賞与は払ったときの費用なので、決算日後の分は気にしない | 賞与規程の支給時期と対象期間から、決算日までの当期負担分を計算する |
| 賞与を出さなかった期の実績だけを見て、見込みを置かない | 直近3期の支給実績と、賞与規程の算定式を並べる。支給の実績が規程と違うなら、理由を聞く |
| 決算賞与を、通知と支払いの記録を見ずに信じる | 各人別の通知書と、支払日(期末後1か月以内か)の記録を出してもらう |
社会保険は、加入・報酬・賞与の3つの届出を名簿と突き合わせ、時効の2年を目安に見る
結論: 社会保険の確認は、従業員名簿と被保険者名簿の突き合わせから始めます。法は保険料を徴収する権利の時効を2年と定めますが、実際の範囲の整理は年金事務所に確認します。
健康保険法3条3項2号と厚生年金保険法6条1項2号は、国・地方公共団体・法人の事業所で、常時従業員を使用するものを適用事業所と定めます。厚生年金保険法9条は、適用事業所に使用される70歳未満の者を被保険者とします。健康保険法の被保険者は、適用事業所に使用される者ですが、短時間労働者など、被保険者となれない者の規定があります(3条1項ただし書)。事業主は、使用する被保険者の保険料と自己の負担する保険料の納付義務を負います(健康保険法161条2項、厚生年金保険法82条2項)。
| 確かめること | 突き合わせる資料 | 根拠・注意 |
|---|---|---|
| 加入漏れ | 従業員名簿・雇用契約書と、被保険者名簿 | 上記の適用事業所の定め。短時間勤務の従業員は、被保険者となれない者の規定を個別に確認する |
| 報酬の届出 | 給与台帳の手当と、標準報酬月額の届出 | 日本年金機構は、標準報酬月額の対象となる報酬を、労働の対償として経常的かつ実質的に受けるもので、被保険者の通常の生計に充てられるすべてのものとし、通勤定期券・食事・住宅など現物も含むとする。臨時に受けるものと、年3回以下支給の賞与は含まない |
| 賞与の届出 | 賞与の支給日・額と、被保険者賞与支払届の控え | 支給日から5日以内に届け出る。標準賞与額は、支給額の1,000円未満を切り捨てた額で、上限は健康保険が年度累計573万円、厚生年金保険が1か月150万円(日本年金機構) |
| 業務委託のエンジニア | 業務委託契約書と、実際の指示・拘束の状況 | 労働基準法研究会報告は、労働者かどうかを契約の形式でなく、使用従属性を実質で総合判断するとする。社会保険の適用の取扱いは、本記事では確認していないため、年金事務所に確認する |
時効について、健康保険法193条と厚生年金保険法92条1項は、保険料を徴収し、またはその還付を受ける権利は、行使できる時から2年を経過したときに時効によって消滅すると定めます。未納額の目安は、未加入だった月数、人数、月額の保険料(事業主分と本人分)の掛け算で出せます。月額の保険料は、標準報酬月額と保険料率で決まり、料率は加入している保険者の通知で確認します。
被保険者本人の負担分について、法は、事業主が報酬を通貨で払うときに、被保険者が負担すべき前月の標準報酬月額に係る保険料を報酬から控除できると定めます。賞与についても、標準賞与額に係る保険料に相当する額を控除できます(健康保険法167条、厚生年金保険法84条)。過去に遡って見つかった未納の本人負担分を、会社が本人にどう求められるかは、この条文だけでは判断できません。社会保険労務士と年金事務所に確認してください。
固定残業代は、通常の賃金と割増賃金が区別でき、差額も払われているかで決まる
結論: 固定残業代は、あること自体が問題なのではありません。手当が何時間分の割増賃金かを区別でき、割増賃金の計算額に足りており、超えた分を別に払っているかを確かめます。
厚生労働省「確かめよう労働条件」の裁判例のページは、定額残業制について次のように整理しています。労働基準法所定の計算による額以上の金額を払っていれば、37条に違反しません。計算方法によらない場合は、割増賃金に当たる部分とそれ以外の賃金を明確に区別する必要があります。定めた残業時間数を超えて残業が行われた場合は、その差額を別に払う必要があります。最高裁判決は、医療法人康心会事件(平成29年7月7日)で、年俸に割増賃金を含める合意があっても、割増賃金に当たる部分が明らかでなければ、割増賃金が払われたとは言えないとしました。日本ケミカル事件(平成30年7月19日)では、手当が時間外労働の対価として払われるものとされているかは、契約書等の記載のほか、使用者の説明の内容や実際の労働時間など諸般の事情を考慮して判断するとしました。国際自動車(第2次上告審)事件(令和2年3月30日)では、手当の名称や算定方法だけでなく、賃金体系全体における位置づけにも留意するとしました。
買い手が書類で確かめるのは、次の5点です(整理は本記事によります)。
| 確かめる点 | 見る書類 | 見るポイント |
|---|---|---|
| 手当の名称と時間数 | 賃金規程、労働条件通知書 | 「何時間分の時間外手当として、いくらを払う」と書かれているか |
| 基本給との区別 | 給与明細、労働条件通知書 | 固定残業代を除いた基本給の額が分かるか |
| 超過分の追加払い | 賃金規程、給与明細 | 定めた時間を超えた分を、別に払う定めと実績があるか |
| 求人票との一致 | 求人票、労働条件通知書 | 厚生労働省は、固定残業代を賃金に含めて募集するときに、①固定残業代を除いた基本給の額、②固定残業代の時間数と金額の計算方法、③超える分は追加で払う旨の明示を求めている |
| 時間数と36協定 | 賃金規程、36協定 | 固定残業の時間数が、36協定の限度時間と合うか |
最後の点について、厚生労働省「募集・求人業務取扱要領」は、固定残業時間が所定労働時間の上限を超えている場合は、ただちに法令に違反することにはならないが、労働者が実際にその時間数の時間外労働を行った場合に法令に違反することとなると注意しています。労働基準法36条は、36協定で定められる限度時間を、1か月について45時間、1年について360時間としています。臨時的な特別の事情がある場合の特別条項は、年720時間以内などの定めがあります。たとえば、固定残業が80時間分と書かれている会社では、その時間数が36協定の枠とどう整合しているかを聞きます。
仮の数字で概算します。 仮に、月給33万円のうち、基本給が28万円、固定残業手当が5万円(「月30時間分の時間外手当」と規程に明記)の会社で、月平均所定労働時間が160時間とします。割増賃金の基礎になる賃金を基本給だけとして計算します。時間外労働の割増率は、政令により2割5分(最低限度)です。
| 項目 | 計算 | 金額 |
|---|---|---|
| 1時間あたりの基礎賃金 | 28万円 ÷ 160時間 | 1,750円 |
| 時間外1時間あたりの割増賃金 | 1,750円 × 1.25 | 2,187.5円 |
| 30時間分の割増賃金 | 2,187.5円 × 30時間 | 65,625円 |
| 手当との差額(1人・1か月) | 65,625円 − 50,000円 | 15,625円 |
| 15人・3年(36か月)分 | 15,625円 × 15人 × 36か月 | 約844万円 |
この仮の例では、手当の額が、規程に書いた30時間分の計算額に足りません。5万円の手当でまかなえるのは約22.9時間分(50,000円 ÷ 2,187.5円)なので、実際の時間外労働がこれを超えた月に、超えた時間分の差額が生じます。上の約844万円は、15人全員が36か月続けて毎月30時間の時間外労働をしたと置いた場合の概算です。実際の時間外労働が30時間を超える月は、超えた分がさらに加わり、22.9時間以下の月は差額が生じません。賃金請求権の時効は当面3年(附則143条)なので、3年分で概算しました。裁判所は、割増賃金の未払いについて、労働者の請求により、未払金と同一額の付加金の支払を命じることができます(労働基準法114条。請求は、当分の間、違反のあった時から3年以内)。
裁量労働制と管理監督者は、対象業務と実態が揃わなければ、みなしも適用除外も効かない
結論: エンジニアの会社で使われうる2つの制度は、導入の書類があっても、対象業務と実態が合っていなければ、残業代の支払いに戻ります。
専門業務型裁量労働制。 労働基準法38条の3は、労使協定で対象業務などを定めた場合に、労働者を対象業務に就かせたときは、協定で定めた時間労働したものとみなすとします。対象業務には、情報処理システムの分析または設計の業務が含まれます(労働基準法施行規則24条の2の2第2項2号)。厚生労働省「専門業務型裁量労働制の解説」は、プログラムの設計または作成を行うプログラマーは含まれないとしています。また、次の場合は専門型を適用できず、みなしの効果は生じないと説明しています。
- 対象業務に従事していても、業務の遂行の手段と時間配分に裁量がないことが明らかな場合
- プロジェクトチームで、チーフの管理の下に業務遂行と時間配分が行われている者
- 対象業務と対象でない業務を混在して行うことが予定されている場合(対象でない業務が短時間でも)
企画業務型裁量労働制。 労働基準法38条の4は、労使委員会の5分の4以上の多数による決議と、行政官庁への届出を要件とし、対象労働者の同意を得ること、同意しなかったことで解雇その他の不利益取扱いをしてはならないことも決議事項とします。
管理監督者。 労働基準法41条2号の管理監督者は、労働時間・休憩・休日の規定の適用除外です。厚生労働省「労働基準法における管理監督者の範囲の適正化のために」は、管理監督者に当てはまるかは、役職名でなく、職務内容、責任と権限、勤務態様、賃金等の待遇の実態によって判断するとしています。「課長」「リーダー」といった肩書があっても、自らの裁量で使える権限が少なく、多くの事項を上司に決裁してもらう必要がある場合は、管理監督者とは言えないとしています。管理監督者であっても、深夜の割増賃金は必要で、年次有給休暇も与える必要があります。
| 制度 | 買い手が見る書類 | 効かなくなる典型 | 将来負担の姿 |
|---|---|---|---|
| 専門業務型裁量労働制 | 労使協定と届出の控え、対象者の一覧、同意書 | プログラマーに適用している。チーフの指示で時間配分が決まる | みなし時間でなく、実際の労働時間に対する時間外手当の未払い |
| 企画業務型裁量労働制 | 労使委員会の決議と届出の控え、同意書 | 決議・届出・同意のいずれかが欠けている | 同上 |
| 管理監督者 | 職務記述、決裁権限、勤怠、賃金の水準 | 「PM」「リーダー」の肩書だけで、権限も待遇も一般の技術者と変わらない | 時間外・休日の割増賃金の未払い(深夜割増は管理監督者でも必要) |
対象者が多い会社ほど、未払いの規模は大きくなります。対象者の人数と、実際の労働時間の記録が取れているかを先に出してもらいます。労働時間の把握の方法は、建設会社 買収 未払残業代の勤怠の突合の考え方が参考になります(業種は違いますが、勤怠と別系統の記録を比べる点は同じです)。
見つけた負担は、実質純資産・運転資金・価格・契約の4か所に置き分ける
結論: 負担の種類によって、置く場所が違います。過去に積み残した債務は純資産と価格に、これから払い続ける人件費は営業利益に、支払い時期の資金は運転資金に、取りこぼしの備えは契約に置きます。
本記事では、決算書の純資産から、未計上の債務を差し引いた額を「実質純資産」と呼びます(呼び方は本記事のものです)。ここまでの仮の数字を並べると、次のようになります。
| 項目 | 仮の金額 | 置き場所 | 注意 |
|---|---|---|---|
| 退職給付(要支給額2,536万円 − 引当金1,200万円) | 1,336万円 | 実質純資産から差し引く、または価格で調整する | 外部制度に掛金を払っているなら、この計算の対象から除く |
| 賞与の当期負担分(引当金なしと仮定) | 700万円 | 実質純資産から差し引く | 支払いの1,050万円と事業主負担の社会保険料は、支給日に現金で出る。運転資金の計画に入れる |
| 固定残業代の差額(全員が毎月30時間と置いた3年分の概算) | 約844万円 | 価格で調整する、クロージング前に会社が支払う、補償で受ける | 来期以降も、同じ規程のままなら毎月の差額が続く。将来分は営業利益に織り込む |
| 社会保険の未納 | 未計算 | 金額が確定したら、クロージング前に納付する、または補償で受ける | 月数・人数・保険料から出す。範囲は年金事務所に確認 |
| 仮の合計(社会保険を除く) | 約2,880万円 | 1,336万円 + 700万円 + 約844万円 |
同じ人件費を、利益の減少と債務の控除で二重に引かないようにします。これから毎期払い続ける費用は営業利益に織り込み、過去に積み残した分は債務として引く、というのが本記事の整理です。引当金が計上済みの額は、すでに純資産に反映されているため、差し引く対象は計算額との差です。
株式譲渡と事業譲渡では、残り方が違います。
| 項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 |
|---|---|---|
| 債務の残り方 | 法人格が変わらないため、簿外債務・偶発債務が残りやすく、詳細なDDが実施される傾向にある(ガイドライン) | 承継対象財産を選択でき、簿外債務・偶発債務を比較的遮断しやすい。ただし、財産の特定、対抗要件の具備、許認可の取得などの作業が必要(ガイドライン) |
| 従業員 | 雇用契約は会社に残る | 労働契約の承継には、従業員ごとの承諾が必要(民法625条1項、事業譲渡等指針) |
| 退職金・賞与の扱い | 会社の債務として残る | 承継するか、譲渡側が精算するかを契約で決める(本記事の整理) |
ガイドラインは、DDの結果を踏まえて、譲渡額、表明保証、補償などを調整できるとしています。表明保証については、期間や責任上限が設定されていない場合や、適用場面が明確でない規定があると、紛争の原因になるとし、DDの結果を踏まえて適切な範囲を設定するよう求めています。定型的に無期限・無制限の表明保証条項を設定することは、慎重に検討すべきだとしています。人件費の負担でも、次のように範囲を絞って書くのが、本記事の整理です。
- 退職金規程と賞与規程が、開示したものがすべてであること
- 社会保険の加入と届出が、法令どおりに行われていること
- 固定残業代・裁量労働制・管理監督者の運用に、行政指導や従業員からの請求が係属していないこと
- 上記に違反があったときの補償の対象期間と上限額
DDの結果、多大な簿外債務・偶発債務が見つかった場合は、株式譲渡から事業譲渡へスキームを変えることもあります。不採算案件の側から見た同様の整理はシステム開発会社 買収 不採算案件にあります。個別の会計処理、税務、労務、法的な判断は、公認会計士・税理士・社会保険労務士・弁護士に確認してください。
自社の場合を確認する システム開発会社の売却を考える方へ、事業価値の目安を先に把握する → 事業価値を確認する
よくある質問(FAQ)
Q1. 退職金規程がない会社でも、退職金の負担を見込む必要がありますか? A. 規程も、退職金の支払いに関する合意もない場合、中小企業の会計に関する指針は退職給付債務を計上することはできないとしています。ただし、退職金の支給実績があり、将来も支給する見込みが高く、金額を合理的に見積もれる場合は、重要性がない場合を除き、退職給付引当金を計上する必要があるとしています。買い手は、規程の有無だけでなく、過去の退職者に実際に払った記録を確認します。判断は公認会計士・税理士・社会保険労務士に確認してください。
Q2. 中退共に加入していれば、退職金の心配はいりませんか? A. 中小会計要領は、中小企業退職金共済など、拠出以後に追加的な負担が生じない制度は毎期の掛金を費用処理するとしています。そのため、決算書に退職給付引当金が出ないことがあります。確認するのは、掛金が対象の従業員全員について納付されているか、中退共とは別に上乗せの一時金を定めた規程がないかです。上乗せがある場合、中小会計指針は、期末自己都合要支給額から外部制度が給付する額を除いた金額を基にするとしています。
Q3. 賞与は、決算日までに払っていなければ負債に出ませんか? A. 中小会計要領は、翌期に支給する賞与の見積額のうち当期の負担に属する部分を、賞与引当金として計上するとしています。引当金が計上されていない会社では、決算日後に払う賞与の当期負担分が決算書に出ていないことがあります。賞与規程の支給時期と支給対象期間、直近の支給実績を見て、当期負担分を概算します。
Q4. 賞与を年4回払っている場合、社会保険の届出は変わりますか? A. 変わります。日本年金機構は、被保険者賞与支払届の対象を年3回以下の支給のものとし、年4回以上支給されるものは標準報酬月額の対象になると説明しています。四半期ごとに業績手当を払っている会社などは、賞与として届け出ているか、毎月の報酬に含めているかを確認します。判断が分かれる場合は年金事務所に確認してください。
Q5. 社会保険の加入漏れが見つかったら、どこまで遡って払うことになりますか? A. 健康保険法と厚生年金保険法は、保険料を徴収する権利を行使できる時から2年で時効によって消滅すると定めています。ただし、実際にどの期間をどう整理するか、被保険者本人が負担すべき分を会社が後から本人にどう求められるかは、本記事では確認していません。事業主が報酬から控除できる範囲は、同法が定めています。年金事務所や社会保険労務士に確認してください。
Q6. 固定残業代を払っていれば、残業代を払ったことになりますか? A. 厚生労働省の「確かめよう労働条件」は、定額残業制は、労働基準法所定の計算による額以上を払っていれば37条に違反しないとしています。一方で、通常の賃金と割増賃金に当たる部分を明確に区別できることが必要で、定めた時間を超えた分は差額を別に払う必要があります。最高裁判決も、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分を判別できることを求めています。手当の名前だけでは決まりません。
Q7. 裁量労働制を採用していれば、エンジニアに残業代は払わなくてよいですか? A. 払わなくてよいと言い切れません。専門業務型裁量労働制は、労使協定で定めた対象業務に就かせたときに、協定で定めた時間労働したものとみなす制度です。厚生労働省の解説は、情報処理システムの分析・設計の業務は対象業務ですが、プログラムの設計・作成を行うプログラマーは含まれないとしています。対象業務でない場合や、業務の遂行手段・時間配分に裁量がない場合は、みなしの効果は生じません。
出典
- 労働基準法(e-Gov法令検索)第11条・第36条・第37条・第38条の3・第38条の4・第41条・第89条・第114条・附則第143条: https://laws.e-gov.go.jp/law/322AC0000000049
- 労働基準法第三十七条第一項の時間外及び休日の割増賃金に係る率の最低限度を定める政令(e-Gov法令検索): https://laws.e-gov.go.jp/law/406CO0000000005
- 労働基準法施行規則(e-Gov法令検索)第24条の2の2: https://laws.e-gov.go.jp/law/322M40000100023
- 労働契約法(e-Gov法令検索)第9条・第10条: https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128
- 民法(e-Gov法令検索)第625条: https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 健康保険法(e-Gov法令検索)第3条・第161条・第167条・第193条: https://laws.e-gov.go.jp/law/211AC0000000070
- 厚生年金保険法(e-Gov法令検索)第6条・第9条・第82条・第84条・第92条: https://laws.e-gov.go.jp/law/329AC0000000115
- 従業員に賞与を支給したときの手続き(日本年金機構): https://www.nenkin.go.jp/service/kounen/hokenryo/hoshu/20141203.html
- 標準報酬月額の対象となる報酬とは何ですか。(日本年金機構): https://www.nenkin.go.jp/section/faq/kounen/hyoujunhoushu/hyoujyunhousyuu01.html
- 中小企業の会計に関する基本要領(中小企業庁): https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/youryou/about/download/0528KaikeiYouryou-1.pdf
- 中小企業の会計に関する指針(令和7年(2025年)9月19日修正、日本公認会計士協会ほか): https://jicpa.or.jp/specialized_field/files/0-0-0-2-20250919.pdf
- No.5350 使用人賞与の損金算入時期(国税庁): https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hojin/5350.htm
- 割増賃金不払い|裁判例(確かめよう労働条件、厚生労働省): https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/hanrei/chingin/fubarai.html
- 固定残業代を賃金に含める場合は、適切な表示をお願いします。(厚生労働省・都道府県労働局・ハローワーク): https://www.mhlw.go.jp/content/11600000/000498453.pdf
- 募集・求人業務取扱要領(厚生労働省): https://www.mhlw.go.jp/content/11600000/001497522.pdf
- 専門業務型裁量労働制の解説(厚生労働省): https://www.mhlw.go.jp/content/001236401.pdf
- 労働基準法における管理監督者の範囲の適正化のために(厚生労働省): https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/dl/kanri.pdf
- 労働基準法研究会報告(労働基準法の「労働者」の判断基準について)(昭和60年12月19日、厚生労働省掲載): https://www.mhlw.go.jp/content/001477330.pdf
- 事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針(平成28年厚生労働省告示第318号): https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00011980&dataType=0&pageNo=1
- 中小 M&A ガイドライン(第3版)-第三者への円滑な事業引継ぎに向けて-(中小企業庁、令和6年8月): https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/m_and_a_guideline.pdf
本記事は2026年10月18日時点の公開情報の整理であり、個別の法律・税務・労務・会計の助言ではありません。