この記事の目次
「うちは社長が営業をしていて、紹介で仕事が途切れない」。小規模なWeb制作会社の売り手が、こう説明する場面を想定します。買い手が知りたいのは、その受注が社長の退任後も入るのかどうかです。この記事は、社長の営業という機能が引き継げるかに絞って、確認する資料と、引継ぎの条件の決め方をまとめます。
この記事の結論
- 過去の売上は、社長が稼いだ実績です。買収後の約束ではありません。 受注経路と案件ごとの記録で、社長に付いている部分とそうでない部分を分けます。
- 社長の営業は、工程に分けて、社員が担える工程を確かめます。 担える根拠は、社員が単独で受注・提案した記録です。
- 退任後の受注は、割合で当てません。 社長経由の受注が落ちたケースを置いて利益を試算し、引継ぎ期間・営業協力・対価の条件に反映します。
この記事の対象:社長が営業を担う小規模Web制作会社を買う、または売る方。制作の担い手が抜けるリスクは、この記事では扱いません。
Web制作会社全体の判断材料は、Web制作会社のM&A DATAにまとめています。この記事は、そのうち社長の営業機能の引継ぎだけを深く扱います。
過去の売上は社長が稼いだ実績。買い手が買うのは、社長が抜けた後に入る受注
結論: 社長が営業を担う会社では、過去の売上のうち、社長に付いていた部分が退任後に残るとは限りません。まず、売上を「社長に付く部分」と「会社に付く部分」に分けて見ます。
中小PMIガイドラインは、取引先への対応の失敗例として、「譲渡側経営者が譲渡側を経営しているからこそ取引してもらっていた取引先について、M&A成立後に少しずつ疎遠になり、半年後取引を停止された」を挙げています。これは同ガイドラインに載っている失敗例の一つです。Web制作会社での発生率を示す資料ではありません。
| 見る売上 | 買い手が確かめること |
|---|---|
| 社長に付く部分(社長の紹介・人脈・指名で入った案件) | 社長が抜けても、その顧客が会社に発注を続ける理由があるか |
| 会社に付く部分(検索経由の問い合わせ、既存顧客の継続・追加発注、社員が営業した案件) | その経路を、社長がいなくても動かせる体制と記録があるか |
| 区別できない部分 | 記録が無いまま、全額を会社に付く売上として数えていないか |
月額の保守・運用の売上は、契約の中身で別に見ます。契約の解除条項や名義の確認は、Web制作会社 保守契約 売却にまとめています。本記事は、新しい案件を取る力(新規受注と、既存顧客からの追加発注)を扱います。
| 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|
| 直近3期の売上が安定しているので、買収後も同じ水準で受注が入ると見る | 売上を、社長に付く部分と会社に付く部分に分けて、続く部分だけを前提にする |
| 社長が「顧客は会社を信頼している」と言うので、そのまま受け取る | 案件ごとの受注経路と、社長以外の窓口の有無を記録で確かめる |
| 社長の役員報酬を足し戻して、利益を高く見る | 社長が営業も担っている分の働きを、別に見積もる(Web制作会社の利益率・社長年収で整理しています) |
受注経路を紹介・検索・広告・既存顧客に分け、誰の関係に付いた案件かを見る
結論: 受注経路ごとに、社長がいなくなったときの影響が違います。案件を経路別に並べると、社長依存の中身が見えます。
経路の分け方は、本記事の整理です。公的な分類ではありません。
| 受注経路 | 社長が抜けたときに確かめること |
|---|---|
| 紹介(取引先・知人・他社から) | 紹介元が、社長個人に紹介しているのか、会社に紹介しているのか。紹介元と、社長以外が接点を持っているか |
| 検索(自社サイトへの問い合わせ) | 問い合わせの窓口と初回の返信を、社員が担っているか。サイトと広告のアカウント管理が会社の名義か |
| 広告(出稿、ポータル、比較サイト) | 広告の運用を誰が担い、アカウントは会社名義か。広告費を止めたら問い合わせはどうなるか |
| 既存顧客(継続、追加、改修) | 発注の窓口が、社長か担当者か。顧客側の担当者が替わったときの関係 |
並べる材料は、案件一覧(顧客名・受注日・金額・経路・営業した人)です。売り手に作ってもらい、請求書や契約書、問い合わせ履歴と突き合わせます。中小PMIガイドラインも、取引先は経営者への聞き取りに加えて、会計データ(法人税確定申告書や決算報告書に添付される勘定科目内訳明細書など)や契約書から把握するとしています。
売上が特定の取引先に集中している場合は、早い段階から確認する対象になります。同ガイドラインは、企業概要書などで売上が特定の取引先に集中している場合はトップ面談時から確認すること、チェンジ・オブ・コントロール(COC)条項の有無や内容を確認することを挙げています。
社長の営業工程を分けて、社員が代わりに担える工程を記録で確かめる
結論: 「社長が営業をしている」を、工程に分けます。社員が担える工程と、社長しか担えていない工程が分かれば、引継ぎで何を補うかが決まります。
工程の分け方は、本記事の整理です。会社ごとに違うため、売り手と実際の流れに合わせて置き換えてください。
| 営業の工程 | 社員が担えているかを見る記録 | 社長しか担えていないときの補い方 |
|---|---|---|
| 問い合わせ・紹介の受付 | 問い合わせ履歴、受付の担当者名 | 受付の担当と手順を決めておく |
| ヒアリング・要件の聞き取り | 議事録、ヒアリングシート、社員が同席した記録 | 社長の同席期間中に、社員が主担当で行う案件を増やす |
| 提案書・見積書の作成 | 社員が作成した提案書・見積書のファイル | 過去の提案書を型として整理し、社員が使えるようにする |
| 価格交渉・条件調整 | 値引きや条件変更の判断を、社員が行った記録 | 判断の基準(値引きの範囲、受けない案件)を文書にする |
| 契約・キックオフ | 契約書の締結者、キックオフの出席者 | 契約の決裁権限を、新しい代表者へ移す時期を決める |
| 継続提案・追加提案 | 既存顧客への提案履歴、定例会の記録 | 定例の担当を社員に移し、顧客側の窓口を広げる |
中小PMIガイドラインは、事業の円滑な引継ぎの失敗例として、営業や生産などの意思決定のすべてに譲渡側経営者の承認が必要だったため、退任後に現場で判断できず業務が停滞したケースを挙げています。社長だけが判断している工程は、退任の前に、判断の基準を文書にして社員へ移す必要があります。
「社員が担える」ことの根拠は、社長の説明ではなく、社員が単独で受注した案件の記録です。単独で受注した案件が見つからない場合は、その工程は社長しか担えていないものとして扱います。
商談履歴・提案書・見積書・やり取りの記録が共有されていなければ、引き継ぐ手がかりがない
結論: 社長の頭と手元にある情報は、退任とともに失われます。買収前に、記録が会社の共有場所にあるかを確かめます。
| 確認する資料 | 確かめること |
|---|---|
| 商談履歴・案件管理(表計算、CRM、チャット) | 案件ごとに、状況・次の約束・失注の理由が残っているか。社長個人のメモや端末だけにないか |
| 提案書・見積書の過去分 | 会社の共有場所に保存され、社員が閲覧できるか。見積の根拠(単価、工数)が残っているか |
| 顧客とのやり取り(メール、チャット、電話の記録) | 社長個人のメールアカウントや個人のチャットだけで完結していないか |
| 顧客ごとの経緯(過去のトラブル、約束、好み) | 文書にされているか。口頭の約束が残っていないか |
| 営業用のアカウント(問い合わせフォーム、広告、名刺管理、SNS) | 名義が会社か、社長個人か |
中小PMIガイドラインは、取引条件について、明文化されている内容だけでなく、その背景や経緯、暗黙の取決めまでヒアリングなどで把握すること、その際に主要取引先と最も強い関係性を持つ譲渡側の人物(例:譲渡側経営者)の協力を得ることを挙げています。同じガイドラインは、属人化している業務は、その経営者への聞き取りで把握せざるを得ない一方、記憶が曖昧なことや、意図的に引継ぎを行わないことがあること、規程や帳票がなかったり実態と合っていなかったりすることがあることにも触れています。
そのため、売り手に求めるのは、聞き取りの時間を確保することと、顧客ごとの経緯を書面にして渡すことの両方です。J-Net21(独立行政法人中小企業基盤整備機構)は、関係先ごとに連絡先、関係の経緯、契約条件、相手が重視している点、未解決事項などを「関係先引き継ぎリスト」にまとめ、面談記録や合意事項を社内で共有しておくことを挙げています。
退任後の受注は割合で当てない。社長経由の受注が落ちたケースを置いて利益を試算する
結論: 退任後に受注がどれだけ減るかを示す数値は、確認できていません。割合を当てず、落ちた場合の利益を先に計算し、価格の前提にします。
仮の数字で試算します。実際の会社の数字ではなく、受注が減る割合を示す根拠もありません。新規・追加の制作案件の売上が年3,000万円の会社で、そのうち社長が受注に関わった分を2,000万円と仮置きします。粗利率を40%、人件費などの固定的な費用を年900万円とします(いずれも仮の数字です)。
| ケース(仮) | 社長が関わった受注の残り方 | 制作売上 | 粗利(40%) | 固定費を引いた額 |
|---|---|---|---|---|
| A | すべて残る | 3,000万円 | 1,200万円 | 300万円 |
| B | 半分が戻らない | 2,000万円 | 800万円 | マイナス100万円 |
| C | すべて戻らない | 1,000万円 | 400万円 | マイナス500万円 |
この表は、粗利率が40%のまま変わらず、固定費900万円が売上の変化で減らない前提です。案件ごとの外注費などは、粗利の計算で売上とともに減る扱いにしています。実際には、固定費とした人件費などの一部を減らせる場合もあります。どの費用が変動し、どれが固定かは、売り手の損益の内訳に当てはめて見ます。ケースの置き方は本記事の整理です。
見る点は、ケースBやCで利益が出るか、出ないならどの費用を減らせるかです。社長経由の受注が戻らないと赤字になる会社は、そのリスクを価格か支払いの条件で受ける必要があります。売却相場の考え方は、Web制作会社の売却相場にまとめています。
引継ぎ期間・営業協力・対価は、成立前に書面で決める
結論: 社長に残ってもらう期間、営業としてやってもらうこと、その対価を、口約束にしません。成立前に合意して、覚書や契約に書きます。
中小PMIガイドラインは、経営者が引継ぎ後に退任する場合について、次の点を挙げています。
- 経営の引継ぎに必要な期間を、前もって見積もる
- 合理的に見積もれないときは、例として半年更新の契約のように、後から柔軟に対応できる形にする
- 処遇(引継ぎ期間の役職・役割、報酬、在籍期間など)は、合意のうえで書面(覚書など)に明記する
中小M&Aガイドライン(第3版)も、最終契約で取り決める主な内容に、経営者・役職員の処遇(経営者による引継ぎ期間など)と、競業避止義務(譲渡後に競合する事業をどの程度禁止するか)を挙げています。
| 決めること | 避けたい判断 | こうすればOK |
|---|---|---|
| 引継ぎ期間 | 「しばらく手伝う」と口頭で済ませる | 期間を区切る。見積もれないときは、更新できる短い期間にする |
| 営業協力の中身 | 協力の範囲が曖昧なまま、成立後に揉める | 主要顧客への同行訪問の回数、案件の同席、提案書・見積の引継ぎ、定例会の移管を、具体的に書く |
| 顧客への告知 | 成立後に、顧客が噂で知る | 主要顧客への説明の時期・順番・担当を、成立前に決める(下の注意を参照) |
| 競業 | 売却後に社長が近隣で制作会社を始められる | 競業避止の範囲と期間を契約で確かめる。条文の読み方は弁護士に確認する |
| 対価 | 引継ぎの報酬と、譲渡対価が混ざる | 譲渡対価と、引継ぎ期間の報酬・顧問料を分けて書く |
顧客への告知は、秘密保持と両立させます。中小M&Aガイドライン(第3版)は、関係者に知らせる時期について、取引先や従業員に情報が伝わった後にM&Aが頓挫すると、取引先の喪失や従業員の退職などが起きるおそれがあるため、秘密保持を徹底し、原則として可能な限りクロージング後(早くとも最終契約締結後)に知らせるべきだとしています。一方、中小PMIガイドラインは、主要取引先との継続取引が解消されて事業継続に影響するおそれがある場合は、譲渡側経営者とよく相談したうえで、必要に応じて基本合意後からクロージング前に訪問・説明を行うことを挙げています。どの顧客に、いつ伝えるかは、顧客ごとに売り手と決めます。
対価については、2つの点に注意します。
- 役員退職金の時期: 中小PMIガイドラインは、社長が顧問などでこれまでと同じ勤務形態・報酬で残る場合に、成立時に役員退職金を支給すると、税務上退任の事実が認められず損金性が否認されるおそれがあるとしています。支給時期は、税理士に確認してください。
- 成果連動の支払い: 中小M&Aガイドライン(第3版)は、アーンアウト条項を、クロージング後の一定期間(3年以内が多いとされています)における特定の時点で、売上や利益などの目標を設け、達成されたときに追加の対価を支払う条項と説明しています。目標や追加対価の設定が曖昧だと争いになるおそれがあり、調整が十分でない段階で価格の差を埋めるために設けるかは慎重に検討すべきだとされています。Web制作会社で使うなら、測る数字(新規受注額か、粗利か)、期間、確認する人を先に決めます。設計は弁護士・税理士に確認してください。
買う・条件を付ける・見送るの判断は、記録と社長の関わり方で決まる
結論: 受注経路と工程の記録が確かめられ、社長の関与が書面にできるなら、買える見込みがあります。記録が無く、社長がすぐ抜けるなら、見送るか、最悪のケースでも成り立つ条件にします。
| 状況 | 判断の方向(本記事の整理) |
|---|---|
| 検索・既存顧客の経路が大きく、社員が単独で受注した記録がある。社長も一定期間残る | 買う方向で検討する。引継ぎ期間と競業避止を書面にする |
| 紹介が中心で、社長に付く部分が大きいが、社長が残り、同行訪問などを書面にできる | 価格や支払いの条件で受ける(支払いを分ける、価格を下げる、成果連動を検討する) |
| 案件一覧と商談履歴が無く、社長がすぐ抜ける。社長に付く部分が大きそう | 見送るか、ケースC(社長経由がすべて戻らない)でも成り立つ価格にする |
| 社長が近隣で同種の事業を始める意向がある | 競業避止の範囲が合意できなければ、見送る |
売り手の側は、買い手が上の表の「確かめること」を聞いてくる前提で、案件一覧、受注経路、工程ごとの担当、商談履歴の共有場所を、先に整えておきます。社長が営業を担っていること自体は、隠さずに示したうえで、引き継ぐための材料を出す方が、買い手は条件を組み立てやすくなります。Web制作会社の将来性と市場の見方は、Web制作会社の将来性も参照してください。
まとめ
- 社長が営業を担う制作会社では、過去の売上を、社長に付く部分と会社に付く部分に分けて見ます。分ける材料は、受注経路と案件ごとの記録です。
- 社長の営業は工程に分け、社員が単独で担った記録がある工程だけを「引き継げる」と見ます。商談履歴・提案書・顧客ごとの経緯が会社の共有場所にあるかも確かめます。
- 退任後の受注は割合で当てず、社長経由の受注が落ちたケースの利益を試算して、価格と支払いの条件に反映します。引継ぎ期間・営業協力・対価は、成立前に書面で決めます。
自社の場合を確認する 営業の属人化を含めた事業の価値を、自社の数字で確かめたいとき → 事業価値を確認する
よくある質問(FAQ)
Q1. 社長が営業を担うWeb制作会社は、売却できないのですか? A. 売却できないとは言えません。ただし買い手は、過去の売上ではなく、社長が抜けた後も受注が続くかを見ます。受注経路、営業工程のうち社員が担える部分、商談履歴の共有状況を示せると、買い手が判断しやすくなります。社長が一定期間残って引き継ぐ前提を、書面で決める方法もあります。
Q2. 社長が退任すると、受注はどのくらい減りますか? A. 本記事では数値を示せません。減る割合を示す公的な統計を、確認できていないためです。会社ごとに、受注経路や社長の関わり方が違います。割合を当てるのではなく、社長経由の受注が落ちたケースを仮に置いて、利益がどうなるかを試算し、価格や支払いの条件に反映します。
Q3. 買い手は、社長の営業力をどうやって確かめますか? A. 社長への聞き取りだけに頼らず、記録で確かめます。案件ごとの受注経路、商談履歴、提案書・見積書、既存顧客の契約書や請求の推移などです。中小PMIガイドラインも、取引先については経営者への聞き取りのほか、会計データや契約書から把握するとしています。記録が無い案件は、確かめられない部分として分けて扱います。
Q4. 社長に引継ぎ期間として残ってもらう場合、何を決めておくべきですか? A. 役割、期間、報酬、終わる時期を、成立前に合意して覚書などの書面にします。中小PMIガイドラインは、経営者の処遇を合意のうえで書面に明記すること、引継ぎ期間を合理的に見積もれないときは半年更新の契約のような方法もあることを挙げています。役員退職金の支給時期は税務に関わるため、税理士に確認してください。
Q5. 売却後に社長が同じ地域で制作会社を始めたら、顧客は戻りますか? A. 戻る可能性があります。社長個人の関係で受注していた場合はなおさらです。中小M&Aガイドライン(第3版)は、最終契約で確認する項目の例に競業避止義務を挙げています。範囲と期間は契約で決まるため、条文や契約書の内容は弁護士に確認してください。
Q6. 成果連動の支払い(アーンアウト)は、受注の不安を埋める方法になりますか? A. 選択肢の一つですが、慎重に使います。中小M&Aガイドライン(第3版)は、アーンアウト条項について、目標や追加対価の設定が曖昧だと争いになるおそれがあり、調整が十分でない段階で価格の差を埋めるために設けるかは慎重に検討すべきだとしています。使う場合は、何の数字を、いつ、誰が確認するかを先に決めます。
出典
- 中小企業庁「中小PMIガイドライン~中小M&Aを成功に導くために~」(令和4年3月) https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/pmi_guideline.pdf
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)-第三者への円滑な事業引継ぎに向けて-」(令和6年8月) https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/m_and_a_guideline.pdf
- J-Net21[中小企業ビジネス支援サイト]「事業承継後も取引先や金融機関との関係を維持するには、どのように引き継げばよいですか?」 https://j-net21.smrj.go.jp/solution/qa/successionqa/Q1544.html